反物質流

たんものしちながれ

新年のご挨拶

皆様、あけましておめでとうございます。

有り難いことに毎年恒例のようになりました、
花園ラグビー場への母校応援の元旦、
往路の車中でこれを書いています。

昨年は「相手あってのことだから」を目標に
一年を過ごして参りました。目標というには
達成度の評価が難しい感じではありますが。

色々な人とぶつかることも多い一年でしたが
その度に気づくのは、相手も決して悪い人
だったりズルい人だったりする訳ではなく、
こちらを思って、あるいは守るものがあって
相応の主張をしているのであったり、あるいは
こちらの出方が脅威となって、防御として
強く当たってきたりしているのだということ
でした。むしろ自分の方が、相手から見れば
狡く映ったりもしたのだろうなと思います。

引き続き、相手の立場、自分の立場を冷静に
見つめ、穏やかで建設的な議論を経て、
共通の目標を定め向かっていけるような
そんな人になれるよう心がけたいと思います。

さて今年の目標ですが、

 無理をせず、進んで、楽しく、適量に

とすることにしました。

今春からもまた大役を仰せつかる予定です。

質量ともに力量以上のものを目指すあまり
消化不良で本来なら得られた成果さえも
逃してしまうことの無いよう、かといって
消極的になり過ぎることも無いよう、
等身大の自分を受け入れ、自他ともに楽しく
ことに当たれることを目指したいと思います。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

ご報告

最後まで残っていた先生名義の契約を解除してきました。

身内じゃないとちょっとした手続きも色々と面倒なのですが
今回は時間はかかったものの比較的スムースに終わりました。

終えるまでは別にそんな気分でもなく、ただ早くしないと
無駄にお金もかかるし支払い面倒だしという、それだけ
だったのですが、終えてみてふと、そんなことを思いました。

実際、カード払いになっていたのをそのままにしていて
引き落し口座は早々に閉じカード会社に振り込んでいたのを
ちょっと油断したら催告状まで届いていて、慌てて連絡して
予想外に丁寧な対応で拍子抜けしたりしていました。

契約の際も一緒にショップへ行き、聞こえるように
「先生」と呼んでいるのに店員さんが「お母様」と言うのを
苦笑いしていたのですが、まさかそれから50日足らずで
旅立ってしまうとは。

ちなみにここ(ドコモショップ高野店)の方は皆さん
とても丁寧で、まあ、その分、待ち時間は長いのですが、
それでも分かるまで説明してくださるのでとても助かります。

手続きを終え、1年ぶりにCafe Airへ。

食事もままならない状況の中、先生がここのものならと
通っていたお店。当時のシェフは福井だかへ行ってしまい、
ちょうど1年前に交代したばかりの方も、年明けで降板、
後任はまだ決まっていないのだとか。

ひと息ついて、雪の中を自転車で帰宅。

やること山積だけど、今日はもうゆっくりしよう。

僕も46歳になりました。

 

これ読んでからずっと、何とも言えない気分でいた。
いや、読む前からあった何とも言えない気分が
ハッキリとした言葉になって向かって来た。

note.mu

この戦いは、戦い続ける人生は、いつ、いつになったら、
一体どういう形で、終わるのだろうか。

そしてその、戦いの、勝者は誰で、一体どのようにして
報われるのだろうか。

あるいは勝ち残り、あるいは途中で敗退して、
その戦いの舞台から降りるといって、どこに、どのように
降りることができるのだろうか。

いや既に書いてしまっているが、戦い続けるしかない、
戦うこと自体が人生な、そんな戦闘マシーンを、
我々は作っているのだ。

勝ちも負けもない。壊れるまで戦うだけの人生。

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幸あれ。

家を出て賀茂川に至る頃
大文字に隠れたままの
朝日が雲居を染める

躑躅から紅緋を経て
輝きを増す鬱金

西方の鴇羽をまた
篠の目に見る人を思う

掌には
垂れ込めた雲が映す
仄かな珊瑚

陽はまだ昇らない

 

はてダにあった「まつはこずえのきらばこむ」を取り込んだ。

ブログタイトル考えるので力尽きて、記事は7件だけだった。

昔からだいたい本題でないところでエネルギーを使いすぎる。

よしなに。

 

吉田寮大掃除という破壊行為について

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この記事の特に後半では吉田寮の存在意義について真面目に語られている。極めて重要なことが書かれていると思います。一方で面白半分に無自覚にやっているのでしょうが、この清掃企画自体もたいへん罪深いことをしている。ある意味、当局よりもずっと酷い。そのことに気づいている人は、意外と少ないようなので、書かせていただきます。

最近は世の中、どこもかしこもとても綺麗で、道ゆく人も勤勉で礼儀正しい。公有地の無駄なスペースもどんどん再開発され有効利用されていく。京大も例外ではなく、かつてあちこちにあった、ともすれば良からぬ輩のたまり場にもなりかねない「何だかわからない空間」は、この20年ほどで次々に駆逐されていった。物理的な空間よりは捉えにくいが、時間であったり組織機構であったりも同様、すべてが合理的・生産的に整えられていった。

あらかじめ定義された目的をもった物ばかりで構成されている空間、整理・整頓・清掃・清潔・躾の行き届いた住人、そこでは、定義した側の意図を越えた活動は生じにくい。「生産性」などの名のもとに人々を全体主義へと導く、そういう見えない力へのアンチテーゼとして、吉田寮は存在しているのです。

つまり、この大掃除は、建物ごと鉄球で打ち砕くよりも酷い、とんでもない破壊行為であり、何よりも住人がそのことに全く気づいていない、ぼんやりとでも抵抗を感じていないとすれば、恐ろしいことです。

とはいえ、またすぐ散らかるのでしょうが、今日で退去期限ですね。

杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号について思ったこと

ああこれ考えましたね。今でもよく分からない。
目の前のその人は受け入れるけど、助長するのはどうなのかと。

例えばちんこじゃなくて足を切ってくれこれはオレじゃないという人も実際にいるわけで。それを切らせてやるべきなのかどうか。

ただ世代を下るに従って、着実に多様性への理解というかそれを当たり前に受け入れる姿勢というのは既に相当浸透していて、当否はともかく学校の制度に埋め込まれたものによる刷り込みというのは強力だなと、ちょっと怖いくらいです。

我々が多様性を受け入れようと受け入れまいと、若い世代はそんな年寄りを受け入れるだろうけど、我々の子は、不寛容な親を持てば、それが自分自身に向けられたものであればもちろん、そうでなくても親の価値観が自分と大きく違えば、それ自体が悩みになるでしょう(悩みが全て悪いとも限りませんが)。

いずれにしても、我が子に対して「あるべき姿」を介して臨むのではなく、まずは「ありのまま」を受け入れ、対話していく方が、お互い幸せなのではないかと思います。

LGBTとSOGI、マイノリティというアイデンティティ

ところで、LGBTナンチャラカンチャラと細分化してみても、結局は「ノーマル」と分断されたマイノリティとしての位置づけを固定化するだけだし、多様な人々を等しく尊重するというなら、SOGI、「性的指向(Sexual Orientation)」と「性自認(Gender Identity)」の2軸で、いわゆるノーマルな人も含めていろいろあるよね、とやった方が、58種類もの性別を覚えるより簡単だなと思うけど、自分はノーマルという安全サイドにいながら「リベラルな自分」を得意がっているような人には自らの足元を危うくするようなことは受け入れがたいのだろうな、とか、それ以上に、実は当人がいちばん「ひととは違う自分」を必要としているのかも知れないと思うと、ことはなかなか複雑だなと。

「マイノリティを認めない」というマイノリティ

もうひとつ、マクロに見るなら、もはや多様性に不寛容な社会というのは、その社会をとりまく広い世界の寛容さによってしか存在しえない、という点も考えないといけない。マイノリティを認めない自分たちがまるごとマイノリティであるという皮肉な現実を受け入れられるのか。
一方その「広い世界」の寛容さだって結局は自分たちとの距離あるいは利害によって測られるものだし、「広い世界」で共有するものとは別の成熟した体系というものが存在するとして、それを認めさせるのは容易なことではない。それをしていたのが岡倉覚三であり新渡戸稲造であると思いつつ『茶の本』や『武士道』を読み返すと、また感慨深い。

最後に

僕自身は上のような形で間接的にこれを否定するに至りましたが、直接的にはやっぱり今でもよくわからないというのが正直なところです。

「生産性」の1語をもって騒がれていますが、最後の一文に集約されるように、杉田氏の主張は善良な保守的市民のごく一般的な考えに過ぎません。

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

時流に乗ってバッシングに加担してる人、少なくとも彼女と同じ程度には考えた上で自分はどう思うのかよく考えて欲しい。私は彼女よりあなたの方が怖い。