反物質流

たんものしちながれ

つまりデザイン経営工学とは変化し続けることであり

それを外形的に固定化する誘惑と戦い続けることである。

飛び続けるその鳥は、ひとたび止まり木を欲するならば

ただちに自ら炎に焼かれ、灰の中から再び飛び立つ。

 

この試みは全く大成功であり、今日も新たなデザ経が

その名を冠することもなく生まれ羽ばたいている。

ただその中身といえば、まったく未検証ではなかろうか。

 

良くも悪くも己の最も元気な時期をそこで過ごせたことに

迎えてくださった先生方に、共に過ごした皆様に

いま心から感謝する。

そしてそろそろ私も、新たな何かの核となり、

骨となっては灰となる、その支度をばする時か。

5年前の規約改正の経緯を尋ねられ、資料を引っ張り出してきた。

前任者として何かを聞かれることも殆ど無かったけれど、
読み返していても、今だからわかることも結構ある。

案件ごとに纏めておいた筈なのに、肝心の資料が見当たらない。

仕方ないので、経緯の概要を書き下ろした。

メモ書きのつもりが長くなり、余白もわずかとなった所でふと、
下の子も卒業だし、元会長として何か書くのも最後かな、
このメモ自体が資料の1ページとして残るかも知れないな、
などと思って、それっぽい結びをつけてみたりした。

自分自身きちんと卒業するとともに、今後とも程よい距離感で
見守って行けたらと思った。 

 

或るマイノリティ(2)

"Minority Country!  God save the Queen!!"

 

学生時代にお世話になり、以来お手伝いをしている

京都「国際学生の家」の入寮面接での一場面。

 

イギリス出身のその学生は、出身国別で見て少数派だ

と言ったのを、わざと茶化しただけの話だが、

かの大英帝国でさえ、状況によっては

マイノリティ国にもなり得るのだ。

 

ついでに言っておくと、東京から来た人でも

京都では「地方出身者」だ。

「入人(いりびと)さん」などという言葉もある。

ただし京都人は外来のものを取り入れるのも上手い。

その話はまた別にする。

 

マイノリティになりたくなければ、

自分がマイノリティになるような集団には近づかない

というのが、それが可能ならば一番手っ取り早い。

 

けれども、何らかの属性において少数派になるのを

完全に免れるのは難しい。だから、属性を明かさない

というのも一つの方策かも知れない。

実際、そうやって身を守っている人は少なくない。

 

 

或るマイノリティ(1)

昨夜は市長との懇談会だった。

車座で一時間、自由に話せる機会だった。

その質問はノートに書きつけてあった。

司会からフリーで話を振られた。

千載一遇のチャンスだった。

なのに、他愛もない話で時間を使ってしまった。

 

実は、その質問の重要性を知ったのは、後の懇親会の席だった。

YESにせよNOにせよ、事務レベルの話だと思っていた。

だが違った。

 

最終的には、各々が決めればよいことではあるが

市長のひと言があれば、同じ問題を抱える皆が

遥かにやり易く、また多くの人々に

その問題に気づいてもらう機会にもなった。

 

しかもそれは、市長でなければいけない。

偉い人に越したことない、ということではなく

おそらく教育長ではむしろ、明確に答え難い問いだった。

 

そういうことに、自分は酷く鈍感なのを

改めて思い知った。

 

そういえば

「半端じゃない」っていう表現

消えましたね。

 

一撃で老害認定される、そう思うオジサンたちは

使わないように意識していることでしょう。

けっこうビクビクしながら暮らしている人も多い

ような気がします。

若者の方は別に気にしないと思いますけど。

それに無理して若者に流行りのことばを使うのも

却って痛々しいようにも思います。

まあ他にも言い換えはいくらでもあるでしょうし

そうやって古い流行語からも新しい流行語からも

見放された先に「美しい」正統なものに傾倒する

そういうものなのかも知れません。

やたら正統にこだわるのは、寄る辺なさの現れ

というのは昔からよく言われることです。

 

今更なんだけど、上座っていうのは
居心地のよい場所ではなく
見る人を威圧するための場所
そんなことにふと気がついた。

料理だってそう。美味しくいただく
というよりは、権威を見せつける
長いあいだ、それが料理だった。

歴史の中で、そういう意味合いが
変化しているという点は、
わかりにくいけれども見落としては
事を見誤ってしまう。

 

既に書いたような気もするが、20年ほど前
南青山のNICOLEだったと思うのですが
僕は本当に場違いで、瀟洒なその店舗の
入り口さえ分からずにいたところを
店員さんが招き入れてくれたときの話。

胸元から視線を下ろしていったとき
どこにも引っかからずに爪先まで行く
そこから顔を上げて全身を見たときに
「あぁ、いいな」と。
そういうのを目指しています。

いつかその服の似合う人物になりたい

「お待ちしてます。」

そう言って送り出してくれた。

 

たしかジェフロアさんだったと思うのですが、
こんな話を聞いたことがある。

ドン・ペリニヨンの特徴を聞かれると
困ってしまうのです。
すべてがそうあるべきようにあること。
それがドン・ペリニヨンなのです。

稲盛和夫さんのお話にもこんなのがあった。

秘策なんていうものは、それさえわかれば
誰にでも真似できてしまう。そんなものは
強みとは言えない。
当たり前のことが当たり前にできている。
それが常に隅から隅まで整っている。
簡単なようで、真似できるものでない。
そういうのを強みというのです。

以前、天皇陛下サウジアラビア副皇太子殿下を
お迎えになった部屋のしつらえが話題になったが
あれもまさしくそういうことなのだろう。

そういうのは日本的な美意識だと思われがちだが
案外、突き詰めると誰しもそこへ行くのではないか。