反物質流

たんものしちながれ

あけましておめでとうございます。

元旦の朝、倅と並んでORIGAMIを淹れトーストを齧っています。
除夜の鐘チームはまだ寝てるし、お昼には集まるので朝は簡単に。

僕は例年通り、夜明け前に御霊さんお参りして賀茂川で初日の出。

今年ちょっと違ったのは、タッチラグビーしてる皆さんがいたので
(毎年やってるそうですが気づきませんでした)寄って行って
混ぜてもらうことにしました。
今日は見学だけにしたあたり、まだまだ積極性が足りないですが、
大文字の稜線から差す朝日にも助けられ、僕なりに思いきりました。
楽しみです。

 

振り返ってみても大変な一年でした。

周囲の皆様にも多大なご迷惑をおかけしたり、励まして頂いたり。

最後の戦い、と臨んだものは、序章の終わりに過ぎませんでしたが
ようやく自分を取り戻せた、そんな確信をもって新年を迎えることが
できました。

 

今年のテーマは「明鏡止水」。

曇りなき鏡のごとく塵垢をとどめず

静かなる水面のごとく人々の拠り所となる。

 

いよいよ正念場、全力で参ります。

 

僕の言葉には世界がない

僕の世界に言葉はない

言葉のある世界に僕はいない

だけど僕らには歌がある

どんなときも

「あの人も頑張ってるから自分も頑張らないと」

って思われてるなら、やっぱり頑張らないと

っていう連鎖で、みんな頑張ってるんだよね。

 

自分の方がしんどいときに、それでも励ましてくれる

そんな人は本当にすごいと思うけど、僕にはできないから

自分がしんどくならないように生きていたいと思う。

そしたらいつでも誰かを励ませるから。

 

それに、しんどいのに励ましてくれてたって思うと

それだけで辛いから、どうか幸せに生きて、

そうして誰かを励ましてあげてください。

 

幸せはロンドなのだ。

 

「本来」

川沿いのテラスでコーヒーを飲みながら「本来もう仕事の時間だな」などと考えていた。実際、僕はそこで仕事をしていたし、何なら職場にいるよりもずっと捗ってさえいた。

ところで、この「何なら」の使い方は「本来」間違いだと思うが、最近よく見かけることもあって「本来」とは何だろうと考えるついでに敢えて使ってみた。といって、それ以上の意味もない。まだあまり指摘もされていないので、何だか身近な生き物なのに実は新種だったのを発見したような、ちょっとした得意の現れに過ぎない。

さて。

そうあるはずだったが、実際にはそうならなかったものを「本来なら」といって恨めしく思うのは、非生産的だし、その「本来」はそもそもどこから来たものなのか。そんなことより現に目の前にあるものをよく見て、そこを起点にする方がよほど良いではないか。

堀端の林を抜けながらそんなことを思っていると「衆生本来仏なり」などと頭に浮かんだ。

おや、この「本来」は違うぞ。

それは自分の外にあって、否、実際には存在しないのに、頭ででっち上げてしまって自分を苦しめるものではなく、たしかに肚の底に具わっているのに、すっかり埋もれてしまって忘れているが、その気になればいつでも掘り起こして使うことのできるものだ。

般若心経をつっかえつっかえ暗証するほかは明解仏教入門を読みかけのままやたら他人に薦める程度で特に仏教に傾倒している訳でもなく「衆生本来仏なり」といって誰の言葉かさえ知らなかったのだが、一応、菩提寺臨済宗なので、どこかで聞いて覚えていたのだろう。

こうやって脇道にばかり逸れるので、僕の授業を受けないといけない学生さんは気の毒だ。

なにしろ「本来」には、あり得たかも知れない架空の今と彼我を分かった過去の分岐点とを恨みつつ語られる「本来A」と、雑事に埋もれながらもそこにあって未来の種になるような「本来B」があるのだな、Aの方は捨ててBを大事にしよう、などと思っていた。

 

カウンセリングでその話をすると(職業的なものなのだろうが)ほぅと感心したあとに、「その本来は別物なんですか?」とまた凄いところをついたところで時間終了。