反物質流

たんものしちながれ

杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号について思ったこと

ああこれ考えましたね。今でもよく分からない。
目の前のその人は受け入れるけど、助長するのはどうなのかと。

例えばちんこじゃなくて足を切ってくれこれはオレじゃないという人も実際にいるわけで。それを切らせてやるべきなのかどうか。

ただ世代を下るに従って、着実に多様性への理解というかそれを当たり前に受け入れる姿勢というのは既に相当浸透していて、当否はともかく学校の制度に埋め込まれたものによる刷り込みというのは強力だなと、ちょっと怖いくらいです。

我々が多様性を受け入れようと受け入れまいと、若い世代はそんな年寄りを受け入れるだろうけど、我々の子は、不寛容な親を持てば、それが自分自身に向けられたものであればもちろん、そうでなくても親の価値観が自分と大きく違えば、それ自体が悩みになるでしょう(悩みが全て悪いとも限りませんが)。

いずれにしても、我が子に対して「あるべき姿」を介して臨むのではなく、まずは「ありのまま」を受け入れ、対話していく方が、お互い幸せなのではないかと思います。

LGBTとSOGI、マイノリティというアイデンティティ

ところで、LGBTナンチャラカンチャラと細分化してみても、結局は「ノーマル」と分断されたマイノリティとしての位置づけを固定化するだけだし、多様な人々を等しく尊重するというなら、SOGI、「性的指向(Sexual Orientation)」と「性自認(Gender Identity)」の2軸で、いわゆるノーマルな人も含めていろいろあるよね、とやった方が、58種類もの性別を覚えるより簡単だなと思うけど、自分はノーマルという安全サイドにいながら「リベラルな自分」を得意がっているような人には自らの足元を危うくするようなことは受け入れがたいのだろうな、とか、それ以上に、実は当人がいちばん「ひととは違う自分」を必要としているのかも知れないと思うと、ことはなかなか複雑だなと。

「マイノリティを認めない」というマイノリティ

もうひとつ、マクロに見るなら、もはや多様性に不寛容な社会というのは、その社会をとりまく広い世界の寛容さによってしか存在しえない、という点も考えないといけない。マイノリティを認めない自分たちがまるごとマイノリティであるという皮肉な現実を受け入れられるのか。
一方その「広い世界」の寛容さだって結局は自分たちとの距離あるいは利害によって測られるものだし、「広い世界」で共有するものとは別の成熟した体系というものが存在するとして、それを認めさせるのは容易なことではない。それをしていたのが岡倉覚三であり新渡戸稲造であると思いつつ『茶の本』や『武士道』を読み返すと、また感慨深い。

最後に

僕自身は上のような形で間接的にこれを否定するに至りましたが、直接的にはやっぱり今でもよくわからないというのが正直なところです。

「生産性」の1語をもって騒がれていますが、最後の一文に集約されるように、杉田氏の主張は善良な保守的市民のごく一般的な考えに過ぎません。

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

時流に乗ってバッシングに加担してる人、少なくとも彼女と同じ程度には考えた上で自分はどう思うのかよく考えて欲しい。私は彼女よりあなたの方が怖い。