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盛大なお別れ会だった。
27歳10ヶ月。5年前の予告通り
世を去った君は、それはそれは
奔放で向こう見ずで
根拠のない自信に溢れていた。
あれから16年。
その後の僕はといえば、まず
不自由もなく恵まれた暮らしを
送っているよ。
君のいうには僕もあと14、5年。
君の生まれ変わりのような倅が
ちょうど君の去った歳の頃だ。
そのとき僕は世にいうところの
幸せな人生だったと
そんな風に言うことにするよ。
それまでしばらく、君のことは
忘れて暮らすよ。
このローマ字がダメな理由
前から言ってたし別に僕が指摘するまでもなく言われてることだけど。
巷で広く使われているヘボン式のローマ字というのは本当にヘボでね、
米英の些細な利便性のためにグローバルには大きなデメリットを残した、
酷いヤツだよ。
今朝は駅でインバウンドの旅行客に尋ねられて「フクヒに行きたい」って。
いや京阪で福井は行けないでしょうと思って指差す先を見たらTo-fukuji、
そう、東福寺。
なんでToが抜けたのか、from-toのtoだと思ったのか(違うと思うが)
それはさておき、英語に匹敵するネイティブ・スピーカーを擁する
スペイン語では、「ji」は「ヒ」って読むんだよね。
それは知ってたけどさ、書かれたものが無かったら「フクヒ」は永遠に
謎だったに違いない。あるいは東福寺で乗り換えてJR京都駅へ行けなんて
福井に案内して結果的にたどり着いていたかもしれないけど。
まあ言い出したら切りないけど、za ji zu ze zoなんて、わざわざ規則性を
崩してまで入れるメリットは、世界のごく一部の人しか享受できない。
米英が悪いとは言ってない。あくまで採用した日本人の問題。
あと別れてから気づいたけどさ、読み方が違うというのをもっと大げさに
発音して言ってあげたらよかったなとか、地上に出て最初の駅だよって
付け加えてあげたらよかったなとか。
まだまだお・も・て・な・しの心が足りないなと。
僕はどこにいるのだろう
僕の外側には他人が塗り固めた僕があり
内側の僕は爛れて流れ落ちてゆく
もともとの僕はどこへ行ったのだろう
そんなものは元々なかったのか
敷かれた道がいきづらければければ広い野原をいけばいい。
こんな簡単なことが、案外、思いつかないもので。
毎日通る河川敷の遊歩道が京都マラソンの経路にもかかわらず
年の350日くらいは完全にオフロード・コースなのですが。
そこへ俄ランナーやらリードを一杯に伸ばしての犬の散歩やら
ひしめき合って、マトモに通れたもんじゃない。
ところがよく見ると、遊歩道の脇には、その数倍もの幅で
短く刈り込まれた草原が続いている。そっちを行けばいいと
なんで気づかなかったかな。
いやそれだけ。
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小奇麗とも言えないような南支風の食堂で、久々に会うその人を待っていると、偶然にも共通の友人(とその友人、その辺の境界はいつも曖昧だった。)数人が入ってきた。僕らは、店の真ん中にテーブルを並べて座った。
程なくしてその人は姿を見せたが、すっとこちらを見遣ると、少し離れた二人席に腰かけた。僕は皆に向けて困ったような顔をして見せると、その人の方へ席を移した。
そんな風に、前触れもなく現れては、ひとの心を乱したり、鎮めたりする。本当に、いい歳をして困ったものだ。
賞味期限
昨日は午前午後と初めてお会いする営業さんがお二人でした。
いつも通り、とりあえずキッカケで持ってこられる商材はともかく、1時間くらいかけてこちらの状況をお伝えしながら、何を出してくるかな、という感じでざっくばらんにお話ししました。
お二人とも程よくカジュアルで聞き上手な若手の女性で、もちろんそういうことでは絶対に商談は決めませんが、こちらの思惑に適った商材をポイポイっと出してくるので、自然と話も弾み、優秀な方だな、という印象だったのですが…
改めて考えてみると、もちろん営業さんも優秀なのでしょうが…
持っている商材が初めからこちらのイメージに合っている、そういうモノが各所から出ている、少し前には市場に存在しなかった自分のイメージしているものが普通になってきている…時代が自分に追いついてきた!
と、ここまでだとまあ、幸せな時代だということなのですが…
だいたい研究レベルで形になったものが熟れた商品として普及するまで15-20年くらいかかる、自分が言っていることは10年前とほとんど変わらない、「これ面白いよ」という本もほとんど更新されていない…自分の賞味期限も近い。
今日はとても優秀な後輩の最終出勤日。引き継ぎも完璧で、来週もおそらく何一つ困らないのだろうな、というのが逆に、大きな喪失感になっている…隠居の夢が遠のいた。
学生ボランティアは大丈夫なのか
昨日の北区ふれあいまつり、加茂中吹奏楽が中止だったのは残念でしたが、初めての会場や悪天候にもかかわらず、整然と成功裏に終えることができ、主催者の段取りの良さに、やっぱ行政すごいわと地味に感心しておりました。
その中で、年々存在感を増すのが、学生ボランティアの皆さんの活躍ぶり。僕ら学生の頃は学生マンション建設反対!が普通でしたが、今では地域の欠かせない存在。ハツラツと何でも器用にこなす姿には、新しい世代の力(裏返せば自分の古さ)を感じます。
一方で、学生ボランティア依存の運営というのは、制度的に見て公平性や持続性に問題はないのか、きちんと考える必要もあるように感じています。
ボランティア経験が、就職活動の中で、職種によっては半ば不可欠な要素になっていないか。その場合に、学費支弁のためアルバイトを余儀なくされ、ボランティア活動ができない学生は、そうした職業につく道を閉ざされていないか。参加している学生に過度の負担を強いていないか。
ボランティアとしての活動内容が、学生本人にとって、どのような経験となっているのか。単なる無償の労働力として、活動全体から隔離された単純作業に押し込めてはいないか、体系的な研修プログラムではないにせよ、何らかの応用可能なスキルを身につける機会になっているか。
安易に学生ボランティアに依存した結果、学生以外の地域住民の新規参加、世代交代が疎かになっていないか。
私なんぞが心配せずともエラい方々がちゃんとしてくださっているのでしょうし、実際に来てくださっている学生さんを見ている限りは余計な心配なようにも思いますが、まあ一応。
(追記)
兵役って軍事だからアレだけど、若いころの一定期間、集中的に公共・社会奉仕に携わるというのは、自営の人にも私企業に勤める人にも、意味のある経験だと思うんだよね。
あと軍隊を否定する人の中に、軍じゃなくて隊を否定してる人けっこういて。