反物質流

たんものしちながれ

「本来」

川沿いのテラスでコーヒーを飲みながら「本来もう仕事の時間だな」などと考えていた。実際、僕はそこで仕事をしていたし、何なら職場にいるよりもずっと捗ってさえいた。

ところで、この「何なら」の使い方は「本来」間違いだと思うが、最近よく見かけることもあって「本来」とは何だろうと考えるついでに敢えて使ってみた。といって、それ以上の意味もない。まだあまり指摘もされていないので、何だか身近な生き物なのに実は新種だったのを発見したような、ちょっとした得意の現れに過ぎない。

さて。

そうあるはずだったが、実際にはそうならなかったものを「本来なら」といって恨めしく思うのは、非生産的だし、その「本来」はそもそもどこから来たものなのか。そんなことより現に目の前にあるものをよく見て、そこを起点にする方がよほど良いではないか。

堀端の林を抜けながらそんなことを思っていると「衆生本来仏なり」などと頭に浮かんだ。

おや、この「本来」は違うぞ。

それは自分の外にあって、否、実際には存在しないのに、頭ででっち上げてしまって自分を苦しめるものではなく、たしかに肚の底に具わっているのに、すっかり埋もれてしまって忘れているが、その気になればいつでも掘り起こして使うことのできるものだ。

般若心経をつっかえつっかえ暗証するほかは明解仏教入門を読みかけのままやたら他人に薦める程度で特に仏教に傾倒している訳でもなく「衆生本来仏なり」といって誰の言葉かさえ知らなかったのだが、一応、菩提寺臨済宗なので、どこかで聞いて覚えていたのだろう。

こうやって脇道にばかり逸れるので、僕の授業を受けないといけない学生さんは気の毒だ。

なにしろ「本来」には、あり得たかも知れない架空の今と彼我を分かった過去の分岐点とを恨みつつ語られる「本来A」と、雑事に埋もれながらもそこにあって未来の種になるような「本来B」があるのだな、Aの方は捨ててBを大事にしよう、などと思っていた。

 

カウンセリングでその話をすると(職業的なものなのだろうが)ほぅと感心したあとに、「その本来は別物なんですか?」とまた凄いところをついたところで時間終了。