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五円もしない虫ゴムを
差し出すことさえしていれば
三十分の道程を
意気揚々と帰ったことだろう
どっちに転んだところとて
屑のような人間だ
「あした休み?」
今年限りの祝日を前に
聞かれた。
土日に仕事があろうが
他の用事で外出しようが
家でダラダラしていようが
何の干渉も無いのに。
「みんな仕事なんやて」
雑談だった。
何年ぶりかの雑談。
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僕の言葉には世界がない
僕の世界に言葉はない
言葉のある世界に僕はいない
だけど僕らには歌がある
どんなときも
「あの人も頑張ってるから自分も頑張らないと」
って思われてるなら、やっぱり頑張らないと
っていう連鎖で、みんな頑張ってるんだよね。
自分の方がしんどいときに、それでも励ましてくれる
そんな人は本当にすごいと思うけど、僕にはできないから
自分がしんどくならないように生きていたいと思う。
そしたらいつでも誰かを励ませるから。
それに、しんどいのに励ましてくれてたって思うと
それだけで辛いから、どうか幸せに生きて、
そうして誰かを励ましてあげてください。
幸せはロンドなのだ。
道途
遊歩道の脇の草原に
足を踏み入れる。
既に三分の二は過ぎてしまった
そちらを通ることもできた途。
残りの半分も行かぬうち
気づけば元の道に戻っていた。
「本来」
川沿いのテラスでコーヒーを飲みながら「本来もう仕事の時間だな」などと考えていた。実際、僕はそこで仕事をしていたし、何なら職場にいるよりもずっと捗ってさえいた。
ところで、この「何なら」の使い方は「本来」間違いだと思うが、最近よく見かけることもあって「本来」とは何だろうと考えるついでに敢えて使ってみた。といって、それ以上の意味もない。まだあまり指摘もされていないので、何だか身近な生き物なのに実は新種だったのを発見したような、ちょっとした得意の現れに過ぎない。
さて。
そうあるはずだったが、実際にはそうならなかったものを「本来なら」といって恨めしく思うのは、非生産的だし、その「本来」はそもそもどこから来たものなのか。そんなことより現に目の前にあるものをよく見て、そこを起点にする方がよほど良いではないか。
堀端の林を抜けながらそんなことを思っていると「衆生本来仏なり」などと頭に浮かんだ。
おや、この「本来」は違うぞ。
それは自分の外にあって、否、実際には存在しないのに、頭ででっち上げてしまって自分を苦しめるものではなく、たしかに肚の底に具わっているのに、すっかり埋もれてしまって忘れているが、その気になればいつでも掘り起こして使うことのできるものだ。
般若心経をつっかえつっかえ暗証するほかは明解仏教入門を読みかけのままやたら他人に薦める程度で特に仏教に傾倒している訳でもなく「衆生本来仏なり」といって誰の言葉かさえ知らなかったのだが、一応、菩提寺は臨済宗なので、どこかで聞いて覚えていたのだろう。
こうやって脇道にばかり逸れるので、僕の授業を受けないといけない学生さんは気の毒だ。
なにしろ「本来」には、あり得たかも知れない架空の今と彼我を分かった過去の分岐点とを恨みつつ語られる「本来A」と、雑事に埋もれながらもそこにあって未来の種になるような「本来B」があるのだな、Aの方は捨ててBを大事にしよう、などと思っていた。
カウンセリングでその話をすると(職業的なものなのだろうが)ほぅと感心したあとに、「その本来は別物なんですか?」とまた凄いところをついたところで時間終了。
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ありがとう。