反物質流

たんものしちながれ

日本の政治を富士登山に喩えてみると

 

政治にはつと疎いのですが、何となく感じたことを。

 

「世界恒久平和の実現を!」といえば天政会から日教組まで

表立って反対する者はないだろう。富士山頂である。

(世界的には紛争でこそ儲けている人が牛耳っていたりもするが)

 

問題はそこへ至る道程。

富士山には五つの登山口があり、うち二つは途中で合流する。

それぞれに特徴があり、里程も難易度も違えば「五合目」の標高まで違う。

政党政治というのは、どの登り口に集うかを主張しあう

本来、そういうものではないかと思う。

途中で換わりながらも徐々に登ってはいる点で喩えとしては不十分だが

基本的にHowを議論しているという意味で。

 

ところが大衆ときたら、あっちの登山口の飯屋が旨いの

こっちの土産物屋が充実しているの、そんなことを言いながら、

文化人は「登っても岩肌ばかり」だの「富士には月見草がよく似合ふ」だの

まるで登る気が感じられない。

 

それだけ今が悪くないということなのだろうか。