反物質流

たんものしちながれ

英語の世紀の英語教育について

id:umedamochioさんに☆をいただいた。トラックバックはしていたのだが、本当に読んでおられるのだと少々驚いた。

さて、引き続き『日本語が亡びるとき』の関連で、この英語の世紀の英語教育に求められることについて、以前から気になっていることを書いてみる。

言語には、普遍語・国語・現地語というヒエラルキーがあり、日本の国語は明治以降、英・仏・独などの普遍語で書かれた文献を翻訳する受け皿として洗練されていったが、普遍語から国語への情報の流れは一方通行であるため、いまや世界に通用するレベルの日本人は普遍語で直接やり取りするようになり、国語の空洞化が起こっている、というのが本書で展開される分析の私なりの要約というか、ここで関係する部分を拾ったあらすじ。

英語が普遍語の中でも最大勢力となっているのは、言うまでもなくイギリスに続くアメリカの台頭という歴史によるが、一旦優位に立てば、その後は『新ネットワーク思考』で説明されているハブとして、自己増殖的に、加速度的に優位性が高まる。しかし、水村氏の論旨には直接関係ないので特に言及されていないが、英語にも現地語としての様々な英語と、普遍語としての最大公約数的な英語があり、アメリカで普通に使われていることばが、すなわち普遍語かと言えば、そうではない。

世界中でいちばん美しい英語を話すのはスウェーデン人だと言った知人がいたが、英語を母語としようとも、国際的な場に慣れた人々は、そういう場では現地語的な表現や修辞的な言い回しは控えている。文学や外交といった世界のことは知らないが、学会やビジネスの場では、教養ある人ほど、最大公約数的な、普遍語としての、比較的平易な英語を用いている。

それなのに、どうも日本では「生きた」英語などと言って、むしろ現地語に傾倒しているように感じられる。そういうのを英語を母語としない日本人が国際的な場で使うのは、東京でわざわざ珍妙な大阪弁を使うようなものだ。

さらに、もっと普通の人が日常的に接するようになるであろう、インターネットにあふれるような英語には、また違った特徴が現れており、それを踏まえた英語教育がなされるべきだと考える。

例えば、次の文。

They were running out of wood for fire.

単語はすべて初級レベルだが、うっかりすると誤訳をしてしまう。こういうのを文脈から切り出して試験に出すというのが、従来の日本の英語教育である。
つまり、正しい英文を正しく理解することを大前提としている。

しかし、英語が普遍語になるということは、市井には必ずしも正確でない英文がより多く流通することに繋がる。つまり、上の例文が「彼らは火災のため森から走り出した」ということを意味する不正確な英文である可能性が、以前より高まっているということだ。実際、オープンソースのソフトウェアの開発掲示板などでは、世界各国からの参加者が、時にかなり珍妙な英文でやり取りをしている。そこで必要なことは、「書かれているであろうこと」を精度良く推測する事だ。

そして、精度良い推測をするためには、文脈(前後関係)情報を活用することがまず重要だが、加えて、書き手の母語に関するちょっとした知識が思いのほか役に立つ。つまり、それらの珍妙な英文の多くは、書き手の母語にある語順や慣用表現をそのまま持ち込んだものであることが多いのだ。

それぞれの言語をスラスラ読み書きできなくても、初級講座の1学期分くらいの知識でも案外役に立つもので、アルファベットを使う言語については、文法だけでなく綴りと発音の関係なども知っていると、訛りの強い英語でも驚くほど聞き取りやすくなる。

さらに、英語力に自信のある方ほど、できるだけ平易な、ないし誤認されにくい英文を心がけるべきではないだろうか。上の例文のような、間違いではないが読み手を惑わせるようなトリッキーさがある表現は、ソフトウェアのコーディングでも好まれない傾向にある。

できるだけ平易に表現し、間違いには寛容になる、今後の実用英語教育に求められる点ではなかろうか。そして、英語教育という今日の論旨からは逸脱するが、普遍語たり得なかった国語は逆に、現地語的な要素を残しているからこそ魅力的なのであって、最大公約数的な表現に還元されてしまったときこそ、その存在意義を普遍語に明け渡す事になるのではないかと思うのである。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く

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