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反物質流

たんものしちながれ

先日、こんな記事を読んだ。

この歳になって気づいたことですけれども、「まとまった時間」はもう永遠にやってこないのです - KogoLab Research & Review

 

自分でもここ数年とくに課題感のある話だったので「ソーダヨナー」とか

思いながら読んでいたのだけれど、派生してもう少し考えたことがあるので、

たいした話じゃないけど、一応書いておく。

 

ナンカネ、関連して3種類のチカラがあるような気がするんです。

  1. 「まとまった時間」を作り出す力
  2. 「まとまった時間」を活かしきる力
  3. まとまらない時間を束ねる力

年齢と共に1.が失われていく。これは社会的な役割の問題も大きくて

「時間がない」と言っている人も、いずれまた暇になるかも知れない。

むしろ2.の方が衰えていってるんじゃないのかな、という気がする。

僕は3.がとっても苦手なので、なんかまあ大したことはしてない割に、

ここ1,2ヶ月は休日はほとんど全部出勤して、代わりに平日休んでる。

そうでもしないと仕事が進まないんだけど、かといって休日でも、

自分で思っているほど進まなくなってる。これはまずいかも知れない。

 

でまあ3.なんだけど、小学生の子供らを見ていて再認識するのは、

ちょっとずつ毎日やることを徹底的に言われる。5分間だけの漢字、

計算、読書、体操。長期休暇中も必ず毎日やることがある。

僕は夏休みの宿題も「こんなの簡単。1日で終る」とか言って、

最初か最後に固めてやってしまっていたけど、実はそういう問題では

なかった、というのは、この歳になって実感する。

 

ほかにも「メモを取る」「整理整頓」なんていうのも、十分な

処理能力のある若いうちは「必要ない」チカラだったものだから

身に付けることなく、この歳になってしまい苦労している。

小学生の時には「神経衰弱」というカードゲームなどは、

一回めくったカードは100%覚えていたから、何のゲームなのか

理解できなかったくらい記憶力が良かったが、今ではちょっと

置き忘れた傘が、いつになっても見つからない。

 

小学校で習うことは中学校で、中学校で習うことはその後に、

と順番になっていると思っていたが、実はどうも違うようだ。

小学校で習うことは壮年期も半ば過ぎた頃に必要になるが、

その時に身につけようとしても難しいようなことだったのだ。

中、高で習ったことは社会人生活の中で広く使うものだし、

大学で習う専門知識なんかは、新人の頃は集中的に使ったけど

最近はあまり使わなくなったという人も多いのではないだろうか。

そして、大学院生の指導なんかは、博士号を取りたての若い

チューターが担当するのが通例だ。つまり20代後半あたりを中心に

両側に広がっていくような形になっている。

 

いやまあ、それだけなんですけど。