反物質流

たんものしちながれ

『日本語が亡びるとき』とりあえず通読

しばらく前にネットで話題になってたので注文してみたら増刷待ち、そのあと個人的にゴタゴタしてて、ようやく一通り読み終えた。人の噂も七十五日(「はてな」では75分くらいが勝負だろうか)、発行日から79日も経ってコメントしても見る人はいないかも知れないけれど、2点だけ、どうしても書いておかないといけないと思ったので、拙速ながら書き留めておく。

1点目、著者の水村美苗氏も、「すべての日本人がいま読むべき本」と評してネット上での評判の火付け役になった梅田望夫氏も、日本人の国語力を過大評価しているということ。非常に明快かつ美しい文章で綴られたこの本を、「難解」と感じた人がネット上のコメントを適当に見ている中でも相当数いるが、私が指摘したいのはそのレベルの話ではない。この国にも、自分の親の名前を漢字で書けない人が、例外とは言えないくらいの数はいる。移民の話ではない。そして今後相当な勢いで増えるであろうその移民の子供達にも受けてもらうべき義務教育の課程というのは、そこに合わせてとは言わないまでも、そういう現実を考慮に入れて編成される必要があるのではないか。外国籍だと受ける義務は無いらしいが、しかし、この国に住まうすべての人の、最低限の理解・行動のレベルというのは、この国の力を支えるインフラの中でも最も重要なものだと思う。そのラインがどこかと私が考えたとき、著者と同じ結論は出てこない。もちろん、学力や経済力(後者については議論もあるだろうが)に応じて、より高度な教育を受けられるのは、スバラシイことだと思う。著者が英語についてエリート教育を推奨する点には全く同意するが、日本語についても同じように考えるべきではないかというのが、18歳人口の半分を占める、大学には行かない子ども達の教育に携わる中で率直に感じるところである。

2点目、幕末以来、日本語を簡単にしようとした人々について、著者の議論があまりにも乱暴であること。これについては、昨年他界した私の父が、20年のアメリカ生活の後帰国し、30年も関わっていた研究テーマであり、内容は傍で垣間見た程度だが、私も他人事には思えず、声を大にして申し上げたい。父は昭和5年生まれで、旧制高校の最後の卒業生だった。フルブライト2期生として渡米したのは、米国をいつか見返すためには、まず敵を知り、追いつかなければとの思いからという父の文章をどこかで読んだ。英文タイプの圧倒的な効率を目の当たりにし、情報通信に効率的な言語にしなければ来るべき熾烈な国際競争には勝ち残れないとの思いで、表記そのものの簡略化とともに、効率的な日本語入力についての研究に後半生を捧げた。その思いは、むしろ明治期に必要に迫られて翻訳に適した日本語を漢字カナ混じりで作り上げた先人にこそ近く、近代文学を伝統かなづかいでという著者の主張の方が、残念ながら理想論と呼ばれるべきものではなかろうか。私自身、父の主張には全面的には賛成しかねるが、少なくともそんな思いでやっていたという点、中にはそういう人もいたという点は、私にはこんな場しかないけれども、書かずにはいられない。

私はそれほど多くの本を読む訳ではないが、この本は本当に良い本の部類に入ると思う。梅田氏が「プラットフォーム」と書いている通り、この本に書かれていることは前提知識とした上で、大いに議論できればと願う。読まずにコメントする方々に氏が不快感を覚えたのは、読んだ人には共感できることだと思う。