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お陰様でこのところ何事も順調なのは結構なのだけれど
順調というのも単に難易度に対して報酬(金銭でない)が
ずいぶん高く設定されているだけのような、しかしそれも
何かルールを読み誤っているだけで、実は結構な代償を
伴っているのではないかという、そんな怖さがある。
ひたすら直滑降のような、あるいは竜宮城で過ごすような
後には何が残るのだろうかという思いが日に日に募る。
H30.7.11 おやじの会全市総会 資料5(裏面)
連絡会と私
「ぼっちおやじ」からの3年間
北区「おやじ・おふくろの会」連絡会
会長 山田 祐仁(紫明学区)
平成27年春。紫明小学校おやじの会の会長をお引き受けしました。前会長の辞意を受けた校長先生からの打診でしたが、ほかに会員もなく、唯一の活動であった紫明夏まつりへの出店も学生ボランティアを頼ってのものでした。育友会(PTA)からの認知も低く、会員獲得・活性化への手がかりもない「ぼっちおやじ」の状態でした。
一方、北区制60周年記念誌への出稿の件で他学区の方とやり取りする中で、合同事業として岡崎動物園でスタンプラリーを開催すると伺い、準備会から参加させていただきました。各学区のおやじの会のほか、全市の会長はじめ他の行政区から駆けつけてくださった皆さんから、各々の活動について教えていただきました。
平成28年春。北区の連絡会が正式に発足しました。合同事業「元気な子どもの絵画展」、北区の助成を受けたRadio Mix Kyoto出演といった連絡会の活動を通じて、教育委員会や校長会、北区役所の方々の物心両面での力強いご支援を実感しました。有志でのPTAフェスティバル出店にも参加しました。行事のたび応援に来て下さる皆さんとのご縁もあって、全市の連絡会へも出席するようになりました。
平成29年春。学区では相変わらず「ぼっちおやじ」でした。夏まつりが試験と重なり学生ボランティアがゼロという中、前会長ばかりかご家族まで巻き込んで何とか店を回すことはできましたが、無理をしても迷惑をかけるばかりなので、会員が集まらない限り、出店は今年限りにしようと思うに至りました。
そんな矢先、育友会長から連絡を受けました。男性会員の参加を促す行事がしたいと校長先生に打診したところ、おやじの会に相談するよう促してくださったとのことでした。ちょうど北区連絡会の防災イベント「イザ!カエルキャラバン」がありましたのでお誘いしたところ、本部役員ほか数名も一緒に参加してくださり、その勢いで紫明おやじの会でも、べーごま大会を開催することができました。学区内を歩いていると「次はいつ?」と子どもたちが声をかけてくれるようになりました。
そして平成30年春。末子の小学校卒業を機に紫明の会長を交替し、肩の荷が下りたのも束の間、急遽、北区連絡会の会長をお引き受けすることになりました。前会長を中心に築いてこられた基礎の上で、学区単位の活動、とりわけ孤軍奮闘する「ぼっちおやじ」の支えになれれば、この3年間に頂いたものを少しでもお返しできればとの思いで、微力ながら精一杯、頑張って参ります。
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どういう訳か、歩兵の教練を受けていた。
小さな丘の手前から地平線に向けて迫撃砲を撃つ周囲で
護衛をしているようなのだが、斜面では茶摘みをしていて、
荒らさないよう頭を下げながら脇を通って行く。
茶摘みの老人には短く丁寧に労われる。
行き慣れない接客のある飲み屋に皆で連れて行かれる。
人手が少ないのか水のコップは自分で取りに行く。
若い店員が何時に上がるように云々と言われている。
裏口の鉄扉の向こうにセコムの装置が見える。
2日目。弾帯を切れ目なくすばやく供給する練習。
端部に色が塗ってあり分かりやすい。
なぜか教官は英語で、no reasonと言われ、
こちらもno reasonと応える。
辛さも悲壮さもなく、ただ坦々と仕事をこなしていた。
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昨日の集まり、
祭りと割り切って遊ぶには悪くなかったし、
あれは前菜でメインは懇親会という設計だとすれば
かなり良かったと思う。
何かしらそういうことに感心のある人が集まった
それだけでも十分な意義があった。
企画・運営してくださった方には感謝したい。
ただ、何かしら期待して参加した人たちの、
ほんとのほんとの気持ちは期待はずれだったと思う。
ひと言で切り捨てるなら、浅い。
そして、改めて思ったのは、何かしら知的に深そうな
話をするときの、お決まりの質問、切り込み方だけを
公式として覚えておけば、それっぽい話はできるけど
自ら突き詰めその問いに至った人たちからは
容易に見透かされてしまうのだろうなということ。
もちろん、そうしたコンサル的なパッケージだって
世の中には広く役に立つだろうし、自らの前提を
問い直すということ自体も問い直すなんていうのは
研究者でも随分こじれた一部だけかもしれない。
ちなみに「研究」と「役に立つ」の関係というのも
お約束の問いではある。
もう20年以上も前だけど「株価指向プログラミング」
という言葉に出会ったことがある。
Java狂騒曲という本の終章ではなかったかと思う。
キレイか汚いかとか、動くか動かないかとかでさえ
経営者にとっては二義的なことという暴論だが、
これが世の中か、と目から鱗だった。
昨日の集まりも、根底には研究と資金の問題がある
というのは、分かるようにほのめかされていた。
ひょっとすると、すごく深いのかも知れない。
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つまりデザイン経営工学とは変化し続けることであり
それを外形的に固定化する誘惑と戦い続けることである。
飛び続けるその鳥は、ひとたび止まり木を欲するならば
ただちに自ら炎に焼かれ、灰の中から再び飛び立つ。
この試みは全く大成功であり、今日も新たなデザ経が
その名を冠することもなく生まれ羽ばたいている。
ただその中身といえば、まったく未検証ではなかろうか。
良くも悪くも己の最も元気な時期をそこで過ごせたことに
迎えてくださった先生方に、共に過ごした皆様に
いま心から感謝する。
そしてそろそろ私も、新たな何かの核となり、
骨となっては灰となる、その支度をばする時か。
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5年前の規約改正の経緯を尋ねられ、資料を引っ張り出してきた。
前任者として何かを聞かれることも殆ど無かったけれど、
読み返していても、今だからわかることも結構ある。
案件ごとに纏めておいた筈なのに、肝心の資料が見当たらない。
仕方ないので、経緯の概要を書き下ろした。
メモ書きのつもりが長くなり、余白もわずかとなった所でふと、
下の子も卒業だし、元会長として何か書くのも最後かな、
このメモ自体が資料の1ページとして残るかも知れないな、
などと思って、それっぽい結びをつけてみたりした。
自分自身きちんと卒業するとともに、今後とも程よい距離感で
見守って行けたらと思った。
或るマイノリティ(2)
"Minority Country! God save the Queen!!"
学生時代にお世話になり、以来お手伝いをしている
京都「国際学生の家」の入寮面接での一場面。
イギリス出身のその学生は、出身国別で見て少数派だ
と言ったのを、わざと茶化しただけの話だが、
かの大英帝国でさえ、状況によっては
マイノリティ国にもなり得るのだ。
ついでに言っておくと、東京から来た人でも
京都では「地方出身者」だ。
「入人(いりびと)さん」などという言葉もある。
ただし京都人は外来のものを取り入れるのも上手い。
その話はまた別にする。
マイノリティになりたくなければ、
自分がマイノリティになるような集団には近づかない
というのが、それが可能ならば一番手っ取り早い。
けれども、何らかの属性において少数派になるのを
完全に免れるのは難しい。だから、属性を明かさない
というのも一つの方策かも知れない。
実際、そうやって身を守っている人は少なくない。