反物質流

たんものしちながれ

デザイン経営工学という試みについて

昨日、改正学校教育法が成立し、専門職大学という新たな学校種が定められたのを受け、是非とも書いておくべきと思い、エディタを開いた。

ちょうど20年前、1998年春の第1期生入学に向け、京都工芸繊維大学繊維学部デザイン経営工学科が立ち上がった。Design、Engineering、Management、の3分野を融合した(この辺を具体的に詳しく書くのが目的だが取り敢えずサラリと流す)野心的な試みに、20代の私も1999年1月に合流し、黎明期の5年余りを過ごした。

なぜか残っている当時のサイトと、私のページ

(あとでかく)

「出戻り」

「出戻り」というと何だか否定的なニュアンスが見え隠れするが、僕自身はけっこう出戻っていて、幼稚園で1回、小学校で2回、転校してまた戻ってくるということをしているのに始まり、学生時代には一旦やめたサークルに戻り、卒業後も一旦やめた職場に戻り、町内会も一旦やめた後にまた戻っている。もはや出戻ることがコミュニティに自分を位置づける方法論になっている感すらある。

小学校までの転校はもとから戻ることが決まっていたものだが、にも拘らず盛大に壮行会をされ非常にバツが悪かった。

閑話休題

実は出戻ることと共通する、ある概念を表す重要なイメージとして、大リーグボールの打倒法というのがある。バットをめがけて飛んできてファールフライに打ち取るという、まあ子供だましの設定ではあるのだけれど、鉄球相手の特訓を経て力任せに打ち返した花形は、全身の筋肉が自らの力に耐えきれず破壊されてしまう。一方、オズマは、投球後に一旦バットの構えを解くことで、魔球をただのボール球にして簡単に打ち返してしまう。この一旦構えを解くというのが、何とも示唆的であり、また出戻りとも共通する何かを含んでいるなといのうが、今朝の雑感。

真摯さと分人

「真摯さ」を和英辞書で引くと普通はSincerityが出ると思う。

音が似てるのは偶然だろうし、紳士とも多分関係ない。

偶然じゃない△という話もあるかもしれないが此処では扱わない。

 

ピーター・ドラッカーが経営者にとって最も大切なもの

としてあげているIntegrityが「真摯さ」と訳されているので、

「真摯さ」でGoogle検索なんかすると、そっち方面の話が並ぶ。

Integrityのもともとの意味は、それ自体として完全な、

統合された、一貫性のある、といった感じで、

人格に対して用いられる場合には、誠実、高潔、真摯などになる。

 

関係ないけどSIerはSystem Integratorの略なので、

〜erって書くのにすごく抵抗あったけど最近はあらゆることに

不感症なのでぜんぜん平気。

 

でその一貫性のあるIntegrityたる「真摯さ」と

一貫性なくていいんじゃね?っていう「分人」ってやつと

これは相反するのかというと別にしないんじゃないかな

っていうのを少し真面目に考えてみたら面白かな

というあたりの備忘録でした。

つまりまだ始まってさえいない話です。

 

 

 

風の旅人。

あなたは何によって憶えられたいか?

その界隈では知らぬ人はいないピーター・ドラッカー
「フリーグラー牧師の質問」として有名なこの問いかけ。

僕自身も折々に考えてみる。

何か凄いことをして歴史に名を残したいとは思わない。
そんな人達が犠牲にしているものも何となくわかるし、
自分はそんなことよりも気ままに暮らしたい。

かと言って、何も残らないのでは少し淋しい。

11頭のラクダを1/2、1/4、1/6に遺産相続だった?

誰かと誰かが偶然に、それぞれ全く別の所で知り合った
共通の知人である僕を発見し、それぞれ手短に思い出を
語って親しくなり、それっきり僕の話は忘れてしまう

…そんな人に僕はなりたい。

イースタンユース 「たとえば僕が死んだら」 - YouTube

染め物の技法に「鹿の子絞り」というのがあって、草間彌生のような文様を一つひとつ、布を糸で縛って作るので、柄によっては一反仕上げるのに何ヶ月もかかる。あまりに贅沢なので、江戸時代には禁止令が出た程。ところが、海外工場ではそれを、穴の空いた鉄板を裏から吸って、ものの数秒で仕上げるというのだから、たまったものではない。

同じことが、IT業界でも起きつつある。最先端のようでいて、一台ごとの職人仕事だったサーバ構築が、クラウド化によってようやく、産業革命の恩恵を受けられるようになってきた。恩恵というのはもちろんクライアント側から見た話で、自らを差別化できないエンジニアにとっては、相当に厳しい時代である。随分と前から言われていたことだが、ここへ来て完全に潮目は変わった。

本当に良いもの、対価に見合う価値を認める顧客のあるものは、残る。しかし「手作り」というだけで価値があるというのは考えが甘過ぎる。そんな内輪の価値観に囚われていては全滅しかねない。自らの強みと、それを活かせる領域、顧客を早く見極め、特化してくべきだろう。

独りよがりなこだわりを捨て、真正面から己れと向き合うならば、強みは必ず見つかるはずだ。

 

いま自分の周りで何が起きているかというと、教え方、学ばせ方というのが非常に発達してきている。自分がもっと若かった頃から、少し離れた所ではそういったものが徐々に生まれているのは窺えたが、身の回りにまでは到達しておらず、何か会得しようと思えば自分で何とかするしかなかった。それとて辞書すら簡単には手に入らなかった先人方からすれば、恵まれた環境ではあったのだろうけれど、同時代でも進んだ所にいる人達に比べると、随分と効率の悪い中で、まあ何とかやってきた。お陰で放置されてもそれなりに何とかなるのだけれど、その何とかするということ自体が何なのかは自分でもよく分からない。一方で周囲には、自分がやってきたのと同じような方法では、何とかならない人達が増えている。あるいは環境がそんな悠長なことは許さない。だから手取り足取り教えてやらねばならない。一方こちらは、そのつもりはあるのだけれど、自分がそうされていないから、どうしてやったらいいのかわからない。要するに、自分が会得したもの、会得する方法、そして自分自身、三つまとめてお役御免といったところか。ま、幸い放っておかれるのには慣れているので、適当にやっときますけど。