反物質流

たんものしちながれ

「現実逃避」ってさ、

実際に逃避してる場合もあるんだろうけど、一日中向き合っててもホントに一歩も進まない、そういう人も多いと思います。僕もそういうこと多々あります。
ひとつ気づいたんだけど、そういうのって割と大きな塊の、しかもある程度の馴染みはあるけど十分な自信はないような、そんな仕事なんじゃないかと。
そしてね、ここ大事なんだけど、全体が決まらないと部分も決まらない、という感覚がある。
とりあえずできそうな所か手を付けても、後でやり直しになりそうな感じ。
段取り良くやっていけば十分にできそうな時間もあるけど、後から大きな手直しまでする余裕はない、みたいな感じ。
何かよくわからない全体像を模索しつつ、具体的な部分は一向にできてこないから、いつになっても全体像が見えてこない。
そうしてるうちに時間ばかりが過ぎて、いよいよ「とりあえずやってみて」という余裕もなく、一発OKを狙わざるを得ないので、ますます動き出せなくなる。
あとはどうしたらいいか、わかるよね。
 
 
 

通学路

今日はちょっと家で用事をして1時間あまり遅い出勤。
すっかり日の登った川原を歩いていると春を実感します。
 
さて今更ですが、「通学路」というものがありまして。
 
公立学校に通う子供たちは家を出ると最寄りの通学路に
合流し、そこから決められた路を通学してくわけです。
 
子供たちが安全に通学できるよう、順路を厳選し、
路側帯や横断歩道を設け、交差点などには見守りの
ボランティアさんが立ってくださっている。
 
当たり前の風景ですが、これが 日本全国津々浦々
およそ人の住む所の殆どを網羅しているかと思うと
凄いシステムだなと。
 
いや、それだけの話なんですが。
 
 

家の中に自分の居場所が無いという現実とキチンと向き合うためにfacebooktwitterのアカウントを消しました。消え方が不完全だったらご愛嬌ということで。別にどちらのサービスもそれ自体に何か問題があったという訳でもないですし。

 

追伸

向き合った結果やはり居場所はなく改善の余地もなさそうなので復活しました。

さてお陰様で無事に43歳を迎えましたので、この一年を振り返りつつ次の一年の抱負など述べたいと思います。

まず今年は現在進行形でお世話になっていた方々が立て続けに世を去られ、まだまだお世話になりたかったのにと残念でならない一方、実情は未熟でもそろそろ第一列に並ぶ覚悟も必要なのかと思わされる一年でした。曰く「稽古不足を幕は待たない」。

厄も明けたので何か新しいことを、ということで、ISO22000(食品安全マネジメントシステム要求事項)の審査員資格にチャレンジしました。職場やご縁の皆様のご支援、一緒に受講した方々との励まし合いのお陰で、試験は無事に通ったのですが、実はまだ登録申請をしておりませんで、早々に手続きした上で、せっかく頂いた機会ですので、これを活かしてお役に立てるよう、そのスタートとなる一年にしたいと思います。

まだまだ老けこむには早いですが、やはり瞬発力、咄嗟の判断、記憶力、回復力、そうしたものの不足を痛切に感じます。衰えたのか、不足に気づけるようになったのか。整理・整頓、些事を疎かにせず、足りない力は仕組みの中で補えるよう、工夫していきたいと思います。鍛えろという声も聞こえて来そうですが。

そして最後に、不平・不満、妬み・嫉み、あるいは驕り、そうした囚われから自らを解放すべく、多面的な視点から建設的に考え、行動し、満足できるよう、周囲に良いオーラが放てるよう、心がけたいと思います。

どうぞ皆様、今後とも末永くお付き合いの程を。

もちろんコンピュータ自身は戦略的な意思決定を行うことはできない。

この一文がやけに引っかかった。

この文が実際に意味するところは

「人間は戦略的な意思決定をコンピュータに委ねることはできない。」

 なのではないか。

そしてそれは本当に、今後ともそうなのか。

 

学校でのコンピュータ使用の件、ドラえもんで言うと

学校のPC増えると生徒の成績下落 OECD調査:朝日新聞デジタル

学校でのコンピューター使用、成績向上に効果なし OECD調査 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

といった見出しで紹介されている件、OECDの元ネタがこちらです。報道は例によって若干ニュアンスが違う部分もあるし、短いので原文を読んでいただくと良いと思う。

www.oecd.org

こういう時には原文にあたるべしといったリテラシーが大事だと思うのだけど、むしろパクリサイトが盛大に拡散するご時世だし、旧来メディアのサイトはたいてい原文へのリンクも文書名も書かれていないのもいい加減どうかと思う。

さて、学校でのコンピュータ利用も普及期に入り、個人技でやっている熱心な先生は健在としても、普通の先生が当たり前にできて効果的な使い方や、先生への訓練や支援といったことが問題になっている。道具の変遷が人の世代交代のスピードを上回った時代にどう向き合うか、とも言えるかも知れない。

ところで、道具の使われ方について、随分前から使わせてもらっているドラえもんの例がある。20世紀末には使っていたと思うが、自分で思いついたか誰かに聞いたか…入江先生との雑談あたりだったかも知れない。

テレビの読み切り(というのも変だが)のパターンは、(1)困るのび太→(2)困った状況に一対一対応した道具→(3)更に困った状況、なのに対して、映画では、一連の活動の中で様々な道具が効果的に投入され、時に定番の道具が使えなかったり想定外の使い方でピンチを切り抜けたり、登場人物がイキイキと活躍する。様々な道具や「たまたまそこにあったもの」が組み合わせて使われるのも映画版の妙かも知れない。

こういうのがスッとカッコイイ言葉で概念化できたら僕も研究者になれたのかも知れないが、いかんせん勉強不足でそういうものと関連付けられないのだけれど、まあとにかく、コンピュータの件もそういうことなのではないかと思う。

ちなみに学校でのコンピュータ利用の件、BBCが掲載しているAndreas Schleicher (OECD education director)の解説記事はこんな風に締めくくっててちょっとカッコイイなと思った。

“Last but not least, it is vital that teachers become active agents for change, not just in implementing technological innovations, but in designing them too. ”

 

(追記)

うちの子の担任の先生は、様々な教科の中で、子供たちの国語辞書を巧みに利用して理解・関心を深めておられた。僕が十数年来やってきた「ノートパソコン1人1台」というのはまさにこういうことだ。「辞書を引く」という国語の単元だけで使い、それ以外の時は「余計なものはしまって!」というのでは学校教育そのものへの不信のほか育つものは無い。

「そのように考えます。」

今日ね、駅前で演説してる人がいて。

いつもの政治の人たちとは

ちょっと違うなと思って。

第一、マイク持ってないし。

 

どうせ赤信号だし、ちょっと耳を傾けて

聞いていたんです。

ちょっと心が弱っていたのもあって。

ふんふん、って。

 

青になったので、ああ、行かないとって

思ったらちょうど一区切りしたようで。

 

「…天理教では、そのように考えます。」

 

え?

宗教って、そのように考えるとか

考えないとか、そんなもんなの?

 

いやまあ、こんなご時世ですから

そう言ってもらった方が断然

取っ付き易くはあるのですが。

 

ちょっと意表を突かれました。