反物質流

たんものしちながれ

もちろんコンピュータ自身は戦略的な意思決定を行うことはできない。

この一文がやけに引っかかった。

この文が実際に意味するところは

「人間は戦略的な意思決定をコンピュータに委ねることはできない。」

 なのではないか。

そしてそれは本当に、今後ともそうなのか。

 

学校でのコンピュータ使用の件、ドラえもんで言うと

学校のPC増えると生徒の成績下落 OECD調査:朝日新聞デジタル

学校でのコンピューター使用、成績向上に効果なし OECD調査 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

といった見出しで紹介されている件、OECDの元ネタがこちらです。報道は例によって若干ニュアンスが違う部分もあるし、短いので原文を読んでいただくと良いと思う。

www.oecd.org

こういう時には原文にあたるべしといったリテラシーが大事だと思うのだけど、むしろパクリサイトが盛大に拡散するご時世だし、旧来メディアのサイトはたいてい原文へのリンクも文書名も書かれていないのもいい加減どうかと思う。

さて、学校でのコンピュータ利用も普及期に入り、個人技でやっている熱心な先生は健在としても、普通の先生が当たり前にできて効果的な使い方や、先生への訓練や支援といったことが問題になっている。道具の変遷が人の世代交代のスピードを上回った時代にどう向き合うか、とも言えるかも知れない。

ところで、道具の使われ方について、随分前から使わせてもらっているドラえもんの例がある。20世紀末には使っていたと思うが、自分で思いついたか誰かに聞いたか…入江先生との雑談あたりだったかも知れない。

テレビの読み切り(というのも変だが)のパターンは、(1)困るのび太→(2)困った状況に一対一対応した道具→(3)更に困った状況、なのに対して、映画では、一連の活動の中で様々な道具が効果的に投入され、時に定番の道具が使えなかったり想定外の使い方でピンチを切り抜けたり、登場人物がイキイキと活躍する。様々な道具や「たまたまそこにあったもの」が組み合わせて使われるのも映画版の妙かも知れない。

こういうのがスッとカッコイイ言葉で概念化できたら僕も研究者になれたのかも知れないが、いかんせん勉強不足でそういうものと関連付けられないのだけれど、まあとにかく、コンピュータの件もそういうことなのではないかと思う。

ちなみに学校でのコンピュータ利用の件、BBCが掲載しているAndreas Schleicher (OECD education director)の解説記事はこんな風に締めくくっててちょっとカッコイイなと思った。

“Last but not least, it is vital that teachers become active agents for change, not just in implementing technological innovations, but in designing them too. ”

 

(追記)

うちの子の担任の先生は、様々な教科の中で、子供たちの国語辞書を巧みに利用して理解・関心を深めておられた。僕が十数年来やってきた「ノートパソコン1人1台」というのはまさにこういうことだ。「辞書を引く」という国語の単元だけで使い、それ以外の時は「余計なものはしまって!」というのでは学校教育そのものへの不信のほか育つものは無い。

「そのように考えます。」

今日ね、駅前で演説してる人がいて。

いつもの政治の人たちとは

ちょっと違うなと思って。

第一、マイク持ってないし。

 

どうせ赤信号だし、ちょっと耳を傾けて

聞いていたんです。

ちょっと心が弱っていたのもあって。

ふんふん、って。

 

青になったので、ああ、行かないとって

思ったらちょうど一区切りしたようで。

 

「…天理教では、そのように考えます。」

 

え?

宗教って、そのように考えるとか

考えないとか、そんなもんなの?

 

いやまあ、こんなご時世ですから

そう言ってもらった方が断然

取っ付き易くはあるのですが。

 

ちょっと意表を突かれました。

 

今日ね、駅前で演説してる人がいて。

いつもの政治の人たちとは

ちょっと違うなと思って。

第一、マイク持ってないし。

どうせ赤信号だし、ちょっと耳を傾けて

聞いていたんです。

ちょっと心が弱っていたのもあって。

ふんふん、って。

青になったので、ああ、行かないとって

思ったらちょうど一区切りしたようで。

 

「…天理教では、そのように考えます。」

 

え?

宗教って、そのように考えるとか

考えないとか、そんなもんなの?

いやまあ、こんなご時世ですから

そう言ってもらった方が断然

取っ付き易くはあるのですが。

 

ちょっと意表を突かれました。

 

a thought

鴨川デルタという所があって、賀茂川と高野川が交わって鴨川になる。

賀茂川を上がれば今の家、高野川を上がればかつての職場、そして

鴨川を下れば木屋町がある。川沿いの道を僕は自転車を駆って行く。

そんな歲月を束ねる、ここは扇の要のような場所。

 

コーヒーを片手に、ふと思った。

ゆく川の流れの、果たしてどちらが過去で、どちらが未来なのか。

流れに乗って未だ見ぬ先へ、そして海へ…という方が一般的だろうか。

けれども、自分の未来は、源流の先の雫の中にあって、静かにその時を

待っている…その方が、僕にはしっくり来た。

 

空のカップをゴミ箱に放り込み、京阪電車に乗って仕事場へ行く。

 

(追記)

学生時代には、鴨川デルタを挟んで、洛中に同志社、洛外に京大という

別の構図があって、謂わば人界と魔界を隔てる場所でもあった。

まだバブルの記憶も新しかった頃には、魔界の子供達は折に触れ

「あっちに行く時は気をつけなさいよ。雪駄に短パンじゃダメよ」

などと諭されていた。

 

学生時代、バブルは終わった、皆がそう実感した頃だろうか、

同窓生と集まり、そのまま俊太郎の家に押しかけて泊まった。

先に起きて、当時まだ第一線のアナリストだった植草先生と

代議士さんの討論番組を見ながら、俊パパと朝食。

 

植草先生が数字やグラフを巧みに使いながら、いかに経済が

危機的状況か、鋭く指摘する一方、代議士先生はただただ

景気は良くなる、と根拠なく自身満々の言葉を繰り返すだけ。

「政府の無能ぶりが手に取るようですね」などと知った口を

利いていると、俊パパから思わぬ言葉を聞くことになった。

「政治家は嘘でもいいから景気は良くなると言わないと。

悪い悪いと言っていれば気分が冷え込みますます悪くなる。」


明治以来、我が国は「パッと戦争」「パッとオリンピック」

そうやって冷え込む経済を盛り上げてきた。

しかし、もうそういうのも効かないほど、この国の、特に

真ん中から下の世代の多くは、己の無力も痛感している一方で

政治も経済も何も信用していない。

 

リスクをとって投資するだけの資金もない、貯金は増えない、

一方こんなに低金利なのに先行きを案じてローンも組めない。

そもそも車も家も、家庭や恋人すらも欲しいと思わない。

否、思えない。何かを持っているごく一部の人のほかは

 自分にも、この国にも、明るい未来なんか、あるわけない、

そもそも未来は明るいなんて、何を根拠にそんなことが

信じられるのか、頭悪いんじゃないのか、そんな空気だ。

 

そんなところで安保法制を強行採決なんかして、

中身はともかく、人々の心には止めを差すことには

なりはしないか。

 

羽化

蛹化の直前に山椒の木に戻したアゲハの一匹が今朝、羽化しました。

実はもう一匹は寄生蜂にやられたようで、小さな穴が空いていて

萎んでしまいました。そういえば蛹になる前の動きが怪しかった

あれは、寄生した蜂のせいだったのかも知れません。

知る限り蛹になる前には育った木を降りて離れた所に行くのですが

寄生された方の一匹は、山椒の木で一旦蛹化のポーズを取った後

別の木に移り、またもとの山椒に戻って蛹になったのでした。

あまり擬人化するつもりもありませんが、本来の挙動と、寄生の

影響とが、せめぎ合っていたのかも知れません。知らんけど。